東向山簗田寺(とうこうざんりょうでんじ)は、東京都町田市忠生の閑静な森と谷戸。豊かな湧き水に恵まれた寺院です。寛永6年(1629年)に簗田正勝(やなだまさかつ)の発願によって建立されました。簗田家は織田信長の家臣で、桶狭間の戦いに勝利した第一の功労者とされ、当寺はその菩提寺でもあります。境内には、貴重な簗田家の墓所や、簗田寺開創にまつわる伝説のある龍王ヶ池などが森に守られるようにたたずみ、花や鳥、虫たちが季節の移ろいを知らせてくれます。敷地は「しぜんの国保育園」とつながっていて、子どもたちの元気な声がいつも響いている寺院でもあります。また地域に根ざした寺院として、日曜参禅会や文化講座、音楽イベントなどの文化・社会事業も積極的に行っています。

地元、山崎の人々に歌い継がれている、当山の御詠歌(仏様やその教えをたたえる歌)があります。

 朝日さす やなだの寺の 観世音
 水に月影 うつるちかいは

鶴見川にそそぐ水源のひとつである龍王ヶ池を背に、本尊が真東を向く地形にある当山は、七国山(ななくにやま)にのぼる朝日を仰ぎ見る景勝地に位置しています。龍王ヶ池に映る、隠岐守直次(おきのかみなおつぐ)所持の観音菩薩像。その誓いは、すべての人を救済しようという「大悲闡提(だいひせんだい)の願い」です。不安、イライラ、悩み、日々の垢。これらを除き、安心を得たい人々に、少しでも入りやすく開かれた寺にしたい、人々の願いを我が願いにしたいと、歴代の住職が努めてきました。

また山門近くにある石碑には、当代17世の中興一無泰全和尚(ちゅうこういちむたいぜんおしょう)の書による、次のような歌が刻まれています。

 「夢」 本堂に 静まり在れり 釈迦牟尼仏
 ほほえみたもう 永遠の寂(しず)けさ

誓いは夢でもあります。自分自身のこと、家族のこと、将来のこと、国、世界のことなどを思い巡らし、夢を語り合い、その夢を支え合うようなお寺でありたい。また、子どもたちと仲のよいお寺でありたいという想いで活動しています。

開山は約1000年前

当山は約1000年以上前、この地に平貞盛が東香堂(とうこうどう)を建立したことを初開創とします。室町時代には、上杉憲定が東岳寺(とうがくじ)として再興しました。曹洞宗に属するようになったのは江戸時代のはじめとされ、寛永6年(1629年)に、埼玉県越生の龍穏寺第21世、鉄春嶺寿(てっしゅんれいじゅ)大和尚を開祖としています。したがって、院号の貞憲院は、平貞盛の「貞」、上杉憲定の「憲」をふまえて名付けられています。

簗田家と簗田寺

当寺を建立した旗本簗田家は、もとは尾張の織田信長の家臣です。簗田政綱は桶狭間の戦いで、今川義元の本陣の場所を信長に知らせて急襲し、勝利した第一の功労者として、沓掛(くつかけ)城を与えられました。しかし、のちの戦乱により落城となり、嫡子であった正勝は伊勢に落ちのびます。その後、正勝は徳川家康に15歳で召し出され、旗本の一員に加えられて、江戸に居を構えます。そして町田市内の山崎全域と本町田、木曽の一部および大和市域を与えられました。その領地内の堂屋敷という場所に、浄土宗に属する東岳寺という荒れ寺があり、正勝は簗田家の先祖の菩提寺にします。そのときより、曹洞宗東向山貞憲院(ていけんいん)簗田寺となりました。

法灯を受け継ぎ今日へ

簗田家は元禄9年(1699年)にお家断絶となり、当寺の第2世住職として実質的に当山を開いたのは、龍穏寺第27世で、大本山永平寺第34世である馥州高郁(ふくしゅうこういく)禅師です。お家断絶後は代官支配所となり、最大の外護者(げごしゃ)を失った歴代住職は、法灯の維持に苦労を重ねながら明治維新を迎えたようです。昭和20年(1945年)の敗戦後は農地解放により、再び大きな試練がありました。その後、越後高田の久昌寺(きゅうしょうじ)第32世より転住した17世齋藤泰全(たいぜん)大和尚は、十数軒の檀徒の協力を得ながら、昭和40年(1965年)に当寺の本堂・庫裡を再建し、本寺の龍穏寺より「中興大和尚」と称する許可を得ています。昭和51年(1976年)より現住職があとを継ぎ、本堂以外の山門諸堂をすべて立て直して境内を整備して、今日に至っています。

いつも 人がいる 寺
いつも 緑に包まれている 寺
いつも ほほえみのある 寺
いつも 円で強く結ばれる 寺
いつも 自分の周りをよく見る 寺
つらいのは当たり前
変わらないものはない
正しい生き方を求めて
すべてはつながっている
心をいつもきれいに保つ
かたよらずに歩む